アラサーだけど、母親が嫌い。話したくもないし、関わりたくもない。一緒に出かけたくもない。
こんにちは、ウサ(@usab1og)です!
ずっとそう思いながら生きてきました。
2020年、自分のその気持ちと向き合ううちに、その原因に気づき、嫌いな気持ちがどんどん消化されました。
今は母親と話をしなければいけないなと思っています。(しかしできていない)
絶対に似たような思いを持つ女性がたくさんいると思うので、記事にしようと思いました。
先に謝ります。ごめんなさい。
この記事はめちゃくちゃ長いです。程よく読み飛ばしながら読んでくださいね。
私が自分を見つめるために細かく書いているので、内容たっぷりになってしまいまいた。
私の母親
私の母親の簡単なプロフィール
- 仕事はピアノの先生(実家に教室があり、そこで経営)
- 2人姉妹の末っ子(お姉さんはいわゆる「できる人」で比較されてきたのでは?と思う)
- 音大に行けなかったことがコンプレックス(本人は行かせてもらえなかったと言うが、母方の祖母は音大受験を許可したのに本人が短大を選んだと言う)
- 金遣いが荒い
- 人と比較するのが大好き
- ちょっとぽっちゃり
- いわゆる「女の子らしいもの」が好き(可愛い服やアクセサリー)
- スポーツには興味がなく、音楽や絵やハンドメイドが好き
- 母方の祖母とあまり仲が良くない
- 父の悪口、祖母の悪口をすぐに言う
- 父親とは学生時代からの仲で、長く付き合って結婚した
意外と母親のことについて知っているなぁと思ってしまいました。(これを書きながら)
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子供の頃の私
他の記事でも細かく触れていますが、
歳の離れた妹が生まれるまでの私は、超絶明るくて自由奔放でした。
妹が生まれてからは、暗黒時代だったと思います。
行く先々でいじめられ、虚言癖や恋愛依存に苦しみました。
常に寂しさを抱えていたと思います。
詳しくは虚言癖についての記事に書いています。
母親と私がどのように接していたか
自分でもびっくりするくらい、母親と接した記憶がありません。
母方の祖母が常に家にいたので、私は祖母といつも話していました。
母親に何かを話した記憶が全然ありません。当然相談もしたことがないです。
全く話さないわけではないのですが、幼少期に話をした記憶は全く残っていなくて、小学生〜高校生時代は、妹が生まれたり、私がたくさんの習い事をしていたりしたこともあって、そもそも一緒にいる時間が少なかったように思います。
何かを話しても、大した内容ではなかったので、だからより一層記憶に残っていないのです。
母の好みを押し付けられてきた
私は、今はなくなりましたが「女性らしさに対する拒否感」を持っていました。
女の子らしいもの、女性らしいもの、が嫌だと思っていました。
その原因が、母に幼少期に母の好みを押し付けられてきたことだと思っています。
私自身は、幼少期からスポーツをやりたくて、幼稚園や小学生の時にスポーツ教室のようなものに行きたいと何度もお願いをしました。
それは全て却下されて、ピアノ・クラシックバレエ・絵画・習字・そろばんを習うことに。
もちろん、いろいろな習い事をできたことはいい経験になって、今なんでも器用にできるのはこの習い事のおかげだと思っていますが、好きなものではなかったのでハマることもありませんでした。
中学入学と同時に、部活動を選ぶ時も吹奏楽部を勧められた記憶があります。流石にこの時は反対を押し切って運動部に入りました。
洋服もずっと「女の子らしい服」しか買ってもらえませんでした。私はスポーティな服の方が好きだったのですが、中学生になるまでそういう「母親の好みではない服」は買ってもらえませんでした。
いつの日にか、「母の型にはめられたくない」という気持ちが膨らんで、母の望む道の逆を行くように生きていました。
ずっと他人と比べられてきた
祖母も、母も私に対してそうだったのですが、ずっと他人と比べられてきました。
きっと、母も母の姉と比べられて生きてきたんだと思います。だからそれしかできなかったのかなと思いました。(今になって、ですが)
勉強も、スポーツも、習い事も、何もかも、誰かと比べられてきました。
何かを頑張っても
でも○○さんのところの××ちゃんは〜
のような感じで、他人と比べられて褒めてもらえなかったり、
何かを頼んでも
でも○○さんのところの××ちゃんは〜
と他人を引き合いに出されて断られたりしました。
褒めてもらえた記憶があるのは、小学生の時に、予備校の全国模試で全国1桁の順位を取った時です。私の通っていた予備校では当然ダントツの1位だったので、比べる相手がいなかったのです。
あとは、全校合唱の伴奏者のオーディションに合格した時です。これも1人しか選ばれないので比べる相手がいませんでした。
その結果、私は「超負けず嫌い」になりました。
幸いなことに、そこまでポテンシャルが低いわけではなかったので、他人との比較で病んでしまうことはありませんでした。
ただ、社会人になってから出会った人たちに「なんでそんなに勝負にこだわるの?」とか「他人と比較しすぎじゃない?」と言われて、自分が負けず嫌いで他人と比べがちであることに気がつきました。
妹との差別が目に見えて分かった
私には8歳歳下の妹がいます。(ずっと仲良し)
妹の簡単なプロフィールを載せると、
- 私より8歳歳下
- 大人しく、インドア派
- 女の子らしいものが好き
- マイペース
- 少しぽっちゃり
- 運動が苦手
- 音楽が得意
と、いう、「ザ・母親の好み」です。
妹が生まれて、母が非常に嬉しそうでした。
母親の希望通りの服、希望通りの習い事、希望通りの〜を満たしてくれる妹が出現したからです。
妹に対する嫉妬なのかもしれませんが、私が今でもはっきり覚えている母とのやりとりが1つだけあって。
大学生の時のやりとりです。
大学についての母とのやりとり
このやりとりがあったのは大学生の時ですが、内容としては大学受験についての内容です。
私は高校は県内でもトップの進学校に通っていたので、一般入試で受験をしました。
第一志望は横浜国立大学、そこに落ちたら私立大学に行こうと思っていました。
国公立は前期・中期・後期がありますが、
前期:横浜国立大学、中期:都留文科大学、後期:静岡大学
に出願していました。
私は中後期の2校は、自分が受けている私立大学よりも行きたいと思えないところだったので、私立に1つでも合格したら受けに行かないと家で話していました。
結果として、横浜国立大学には落ちて、津田塾大学に進学することになったのですが、そもそも合格したときに母親から褒められることはありませんでした。MARCHにもセンター利用で合格していたのに、一切褒められていません。
ウサが国立大学に行けなかったから、うちはお金がない。
なんで静岡大学を受けなかったのか・・・
元々、横浜国立大学に受からなかったら私立大学に行って良いという約束だったよね?お金がないならその時に言ってくれればよかったじゃん。
○○ちゃんは先生になるために静岡大学に行ったんだって。偉いねぇ。
ウサはわがままばかり。
え?(呆)
確かに、私が大学生の時に東日本大震災があり、父が勤めている会社の本社(石巻にあった)が津波で流され、父の給料がガクッと下がったと聞いたのでお金はなかったのかもしれませんが、私が家の金食い虫なのかと罪悪感をすごく感じていました。
その後、妹が大学受験をする時が来ました。
妹は一般入試で国立大学を受験する学力がなく、推薦入試で受験をすることになりました。
落ちたら私立大学を一般入試で受けるということだったので、妹には「過去に母からこういうことを言われたから、妹も言われるかもしれない」と上で書いた内容を話しておきました。
結果として、妹は推薦入試に落ち、私立大学を受験することになったのですが、
妹ちゃんの好きなところを受けなさい。
じゃあA大学と〜B大学と〜C大学と〜
D大学と〜E大学と〜
あれ?私の時は、私立は受験料が高いからセンター利用でしか受けるな、5校まで受けてもいいよと言っていたのに、妹はそんなにたくさん一般で受けるの・・・?お金かかるんじゃないの????
そして結果として、教育関係に携わっている人は知っているけれど、普通の人はあまり知らない私立大学に合格したのですが、
妹ちゃんすごい!受かってよかった〜頑張ってよかったね〜!
仕送りするからね!
よかった〜
えっ?!私の時は仕送りなんてなかったぞ?
っていうかなぜ妹は褒められるんだ?
私は頑張っていなかったのか・・・?いや頑張ったぞ・・・?
こんな感じで、私はダメで、妹はOKということが、特にお金関係で多かったです。
妹には仕送りがあって、私にはない。
妹は自動車学校の代金を出してもらって、私にはない。
妹は家賃の高い部屋を借りて、私はやっすい部屋。
妹はバイトしないで生活をして、私はバイトに押し潰される生活。
妹は欲しいと言ったものをだいたい買ってもらえて、私は買ってもらえたとしても文句を言われる。
ずっとそんな感じでした。
妹とは仲良し
妹とは基本的に喧嘩をするようなこともなく、ずっと仲良しです。
趣味嗜好が違いすぎるので、逆になんの争いも起きません。
今でも日本と海外で時差があるのによく電話をしますし、通信ゲームをすることもあります。
少なからず私の影響もあってか、妹は養護教諭(保健室の先生)になりました。
絶対いい先生になる!(来春から勤務)
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父親が私の救いだった
ここまで影が薄かったお父さん。
父親のプロフィールを簡単に書くと、
- 5人兄弟の末っ子で、お金のない家庭で育ち苦労した
- 社会人になってから一級建築士を自分で取った
- 建築関係の仕事をしている
- 婿にきた
- 運動が得意で、頭もいい(雑学王すぎてTVに出るべきだと何度も思った)
- 几帳面
- 我慢強くて、超溜め込む
- 人見知り
- 祖母や母から悪口を言われてかわいそう
- お酒が好きで、お酒でストレス発散をしているように見えた
幼い頃から、父親のことは「かわいそう」だと思っていました。
父親とは趣味や好みが合ったので、よく話しましたし、土日もよく出かけました。
いつの日か、家の中で私は「父親派」、妹は「母親派」という流れができていました。
こっそりとお金を渡しに来た
東京で一人暮らしをしているときに、私は仕送りもなく、アルバイト代で生活していたので、結構困窮していました。
母が家計を握っていて、母にお金を送って欲しいと頼んでも送ってくれるわけがないと思っていたので、誰にも何も言わずに黙々とアルバイトをしていました。
ある日、父親が突然東京のアパートに来て、急にご飯を食べようということになったのです。
帰りがけに、これ少ないけどあげるよと言ってお金をくれました。
母親からお金について散々言われて、私立大学に入ったことを否定されて傷ついていた私は、この父の行動にすごく救われました。
父はお小遣い制だったので、お小遣いを貯めて、それを私にくれたのです。
この時は感動した。。。
私の友達や元夫に、私がいないところでお願いしてくれていた
私の親友たちや元夫を実家に連れて行くことが何度かありました。
その時に父も含めてみんなでご飯を食べることがあったのですが、
私が席を外すと
ウサは、ああ見えて弱いところがあって、人を頼ることができないんだ。
申し訳ないんだけど、困っている様子だったら声をかけてあげてほしい。
とお願いしていたそうです。(妹、親友談)
それを聞いて驚きを隠せませんでした。すごい、父。
離婚するかどうか悩んでいるときにずっと私の様子を気にしていた
私が離婚するかどうか悩んでいた2年間。
実家に帰って頭を冷やすことも何度かありました。
私は、ただ離婚すると思う、とだけ言って、何があったかは家族にも一切話していませんでした。
その時に父親は
きちんと話をするんだよ。
ウサの素直な気持ちを伝えなよ。
もっと親を頼っていいんだよ。
でも早く自分の家に帰りなよ。
と何も言わない私に、ずーっと言い続けたのでした。(それでも私は何も言わなかった)
母親はやはりどこか他人事で特に何も聞いてこなかったのですが、父親はすごく私のことを気にしていたなと思います。
母親も父親も言葉で愛情を示してくれる人ではなかった
これは日本人あるあるなんだと思いますが、母親も父親も、言葉で愛情を示してくれる人ではありませんでした。
母親に関しては、本当に愛されている実感が1ミリも湧いたことがなくて、
妹は愛されているけれど、私は愛されていないよね。
いつも妹はなんでも許されて、私はなんでも文句を言われる。
それが結果だよね。
と言ったことがあります。それに対して、泣きながら
「違う!今まで大切にしてきた!」
みたいなことを言われたのですが、私の心には全然響いてこなくて。
でも、あぁこの人は私のことを一応愛しているつもりなんだな…と思ったことを覚えています。
父親は、言葉には出さないものの、行動の節々から愛情が伝わってきたので、愛されているな〜と思っていました。
なんで父親は母親と結婚したんだろうな?なんて思うこともしばしば。
私が思っているほど、父親はかわいそうじゃなかったのかもしれませんが、やはりどこかでかわいそうだと思う自分がいます。
父親は本当にびっくりするほど我慢強いので、嫌なのか嫌じゃないのかわからないことが多いのです。
だから私は恋人に「言葉での愛情表現を求めた」んだ
これは余談ですが、ここまで書いていて、
親から言葉での愛情表現が欲しいと思っていたんだなということと、
だから私は歴代の男たちに「言葉での愛情表現を求めた」のか
という事に気がつきました。
私自身の愛情表現も言葉で表現することを重視していたように思います。
もし、許されるならば、こうして欲しかった
母親に対して思うのが、いろいろ事情はあったと思うけれど
というところですね。
長女なので、お人形のようにしてしまったのかもしれないですが、キツかった。
やはり
「寂しかったなぁ」
と思います。
自分の好きなことをやらせてもらえない寂しさ。
頑張っても褒めてもらえない寂しさ。
他人と比べられて否定される寂しさ。
妹との扱いの差を感じる寂しさ。
いろんな寂しさがありました。
だから私は母に対して怒りがあったのだと思います。
そして、その怒りをぶつけることができないから、嫌いになったのだと思います。
ここまで考えた時、本当の意味で嫌いなのではなくて、自分の中の寂しさに悲しんでいるのか〜という事に気がつきました。嫌いという気持ちを消化し始めたのです。
今後どうするか
本当なら、この事について母と話した方がいいのだろうと思います。
でも私の心が拒否していて、できる気がしません。手紙なら書けそうだけれど。
そんな風に思っていたら、母が難病を発症して、だんだん筋肉が動かなくなってきてしまい、喋ることも大変になってきてしまいました。
どうしようかなぁとまだ悩んでいますが、きっと話す事になると思います。
その時はまた記事にしたいと思います。
こんなに長い、私と母の確執の話を読んでいただき本当にありがとうございました。ぜひ共感していただけた方は、コメントかTwitterで感想を共有していただけたら嬉しいです。
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